Mahmalo’s blog

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【音楽】NSOの音量と緻密さが生み出した至極のマーラー

鉄は熱いうちに打て、ということで今日のメインイベントについても書く。

 

今日のメインイベントとは、ずばりコンサートである。

 

今日はNSO(National Symphony Orchestra)が演奏するG. Mahler交響曲第2番を聴きに行った。

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冊子の表紙

 

曲につけられているタイトルは「復活」

「生と死」を題材とし、1888年から1894年の間に作られた曲で、マーラーの親族の度重なる死など、マーラー自身の辛い時期がこの曲の背景にある。

マーラーはこの曲を通して、「生と死とは何なのか、我々は何のために生きるのか、生きる意味とは何なのか」という哲学的な難題に答えを出そうとしている。

 

曲の流れとしては、「葬礼」と題された極めて荘厳な雰囲気の第1楽章から始まり、続く第2、第3楽章では過去の華やかな記憶と、それが過去のものであるという意識から生まれる哀愁が描かれている。第4楽章のアルトの独唱では「子供の不思議な角笛」の中の「源光」から、第5楽章は「生と死」への答えとして「コリント人への第一の手紙」などから由来する独唱、合唱。そして「復活」を歌い上げながら盛大なフィナーレを飾る。

 

細かい説明や評価は批評家がする仕事で、私ができることではないが、今日は私の感想と、どのように私に響いたかを話したい。

 

結論から言って感動した。

演奏自体が台湾で聴いてきた中でもトップクラスに洗練されており、ただの1シーズンのうちの1演奏会という位置付けではなく、これに向けて凄まじい量の労力が注がれ、演奏者と指揮者、さらには聴衆までもが真剣に「生と死」や「復活」に向き合っていた演奏会だった。

 

ただ、現代に生きる私にとって、キリスト教的な「復活」や「再び生きるために、私は死ぬ」と言った考えが私の生と死に対する答えにはなり得ない。そもそも、私にとって「生きる」ということは、神聖で宗教的な生活や営みではなく、世俗的な人間社会における生活なのであって、そこに私自身が死後蘇る「復活」が介在する余地はない。

 

では、私は「復活」をどう解釈しようか。

 

社会とは、人間が形成するものであると同時に、人間に対して外在し、作用するものである。つまり人間と社会は相互的に作用しており、人間が社会を形作り変革を生み出すこともあれば、社会は人間に作用して人格や個人、集団の行動原理を形成する。

これが私が思う「世俗的な人間社会」である。

 

社会学部での学びが背景にある私にとって、「復活」とは私個人の死後、蘇ったり再び生を受けることではなく、私という存在を社会に内包させ、恒常的に作用しあうことにあるように思う。

 

さらには、私個人や私が属する「世代」が、歴史の一部として人類の時を刻むこと、我々の営みの痕跡や生産物が未来への礎となること。すなわち、我々にとっての「現在」を未来にとっての「過去」にせしめて、我々の社会と未来の社会に連続性を持たせること。

 

私は私自身という「個人」であると同時に、「日本人」であり「人類」である。

「人類」としての生存や発展に寄与し(この曲で死んだ英雄のように)、その歴史として未来から回顧されることで「復活」するのではないかと思った。

 

もちろん自分自身が英雄を気取るつもりではないし、私一人が未来をよくするわけでもない。

あくまでも「私を含む現代人が」という意味である。

 

ここまで壮大な問いに対して自分の不束な考えを述べてきたが、私はここでこの考えの是非を問いたいのではない。

今回のコンサートは音楽が問うことに対して、自分が思索するという対話的な時間だったという、その経験と価値を記しておきたい。

 

そして恐らく、自分なりの思索を巡らせていたのは私だけではなく、今回のコンサートに足を運び、國家音樂廳の席を埋め尽くした聴衆、そして壇上の指揮者並びに演奏者の方々も、私と同様に自分自身に問いかけ、回答する1時間半を過ごしたのではないだろうか。

 

非常に楽しくて有意義な時間だったと思う。