【小説】もっと早く出会っていたかった、伊坂幸太郎著「砂漠」
私はあまり「たられば」を語ることは好きではない。
なぜなら、いくら「〜だったらなあ」や「〜であればなあ」と言えども、現実は変わらないからである。
基本的に私は、自分の周りの環境や状況は、自分の行動で変化を加えるしかないと思っている。(もちろん、流行病やイノベーションなどの自分に外在する要因で自分の周辺環境が変化する場合も多くある)
要するに、自分が制御できる範囲内にある要因によって、周りの環境が自分の望むように少しでも変化するのであれば、まず行動しようというのが、私の考え方なのだ。
しかし、そんな私が「たられば」を口にしてしまうシーンが主に二つある。
一つは、サッカーの試合を観ていて、「あのチャンスで得点できていれば…」という時。すごく具体的であるが、Liverpool FCのにわかファンであり、最近よくサッカーを観ている私は、最近のリヴァプールの「チャンスは作れどもシュートが決まらない試合」で負けたりした時、「たられば」を口にしてしまう。
もう一つは、「もっと早く知っていれば…」と思うほど、貴重な知識や経験を得た時。
もっと早くその事を知っていれば避けられたであろう大きな損失や、あるいは得られたであろう貴重な利益が生じた時に、ついついそう口走ってしまう。
伊坂幸太郎著「砂漠」を読んだときなんかは、特に「もっと早く出会っていれば…」と感じたのを、今でも鮮明に覚えている。
物語は、主人公である北村とその個性的な友達の5人組が、大学入学から卒業までに様々な奇怪な出来事に(時には外発的な、時には内発的な)遭遇するお話である。
具体的な展開や結末はぜひ実際に読んで知って欲しいのだが、当時大学三年生だった私がこの小説を読み終わって最初に感じた事こそが「もっと早く読んでいたら、自分はもっと違った大学生活を送っていただろうに」というたらればである。
私の大学生活は、端的に言えば勉強に明け暮れ、遊ぶことや友達と関係を深めるといった側面は、今自分が振り返っても悲しくなるほど乏しかった。(念のため言っておくが、友達がいないわけではない。)
一年生の最初の方こそ、友達やクラスメイトと昼食を食べたり、授業の合間にくだらない事を話したりしていたが、学期が進むにつれて、自分は勉強で手一杯になってしまい、授業の合間でさえ論文や教科書を読むといった生活になってしまった。
ご飯や遊びに誘われても、「宿題があるから…」の返答しかしない(本当に宿題がたくさんあった)私は、いつしかご飯の誘いも稀にしか来なくなってしまった。
もちろん勉学に力を入れたおかげで、成績もそこそこに、大学でたくさんの知識を吸収できたと自負できるほど充実した大学生活になったと思うが、「学生生活」というのは必ずしも勉学の側面しか無いとも言えない。
友人と遊んだり、お互いに関係を深めあったりするのも大切な「学生生活」の一環であると今になって私は思う。
「砂漠」を読んで、私に欠けていた学生生活の側面を存分に味わっていた主人公北村とその友人たちに、正直言って私は嫉妬したのだと思う。
大学生、しかも留学しているというステータスを持ちながら、なぜ私は周りの同級生やもっと多くの外国人生達と、勉学以外で接しなかったのだろう?
私がもっとも勉学に奔走していた一、二、三年生の時間は、もはや戻らない。私は「砂漠」を読み終わって、過ぎ去ってしまった時間を今更ながら惜しく感じてしまった。
結局四年生では、勉学以外の私生活を充実させようと心がけながら生活していたが、いつ振り返ってもそれ以前の3年間は、既に過ぎ去ってしまって取り返しがつかないし、それに悔しさを感じる。
もし、もっと早くこの小説に出会っていれば、私にはもっと違った大学生活があっただろうし、周りにはもっとたくさんの友達ができていたと思う。
今更後悔してもどうにもならないが、これから先は変えられると信じたい。