【留学】期待を胸に授業へ突入、そして玉砕した話
先日は台湾留学の初日について長々と話した。
今日は少し時間が経って、授業が始まった頃の体験や感想について話したい。
一年生の前期に私が受けた授業は、以下の通り
月曜日:初級フランス語
火曜日:社会学、フレッシュマン英語、外国籍生徒のための中国語
水曜日:初級フランス語、フィジカルフィットネス
木曜日:普通心理学、外国籍生徒のための中国語
金曜日:社会統計学
土曜日:国語(外国籍クラス)
こう並べて見ると、一年生の前期は語学中心で、授業数も少なく見える。
しかし実際には合計して22単位あり、一学期18週間、基本的に一回の授業時間は3時間、社会統計学に至っては午前と午後に分かれて合計5時間授業を受ける。
特に火曜日は合計して9時間授業を受けなければならない上に、どの授業も重い(宿題が多く、しっかり聴いていないと置いて行かれ、先生が厳しいの意)ので、学期中私は火曜日が迫る度に憂鬱になっていた。
入学ホヤホヤ一週間目の私は、後に大変な思いをするとは知らず、ワクワクしながら教室に入って行った。
(実際、一週間目はシラバスの説明がほとんどで、授業も早めに終わるのではなどと甘い考えをしていた。)
月曜日の初級フランス語に関しては、高校の第二外国語でフランス語を選択していた甲斐もあり、正直何を学ぶのか、どう勉強するのかなどは頭に入っていた。シラバスを説明し、軽く挨拶などの簡単なフランス語を教わったところで月曜日は終わったので、その日は余裕を持って帰路についた。
問題が起こったのは火曜日である。
いよいよ社会学という専門科目を学べるということで、私は存分に期待して席についた。教室は生徒で満杯、人気科目であることが窺える。ついに教授が入室し、シラバスと一つ目の単元の冊子を配り、全員にそれらが行き届いたのを見届けてから、彼はマイクを持った。
そして次の瞬間、私の頭の中は嵐に襲われたように混乱に陥った。
予備校でそれなりの時間数中国語を学習していた私は、台湾に行き実際に授業を受けてもなんとかなる程度には自分は中国語を習得していると、自分の実力を過信していた。
実際、授業が始まる前の数日間や、月曜日のフランス語に授業では特に問題なく聴き取れていて、正直自分の中国語の実力に問題意識は抱いていなかった。
しかしどうだろう、社会学の教授が話す中国語は、それまでと比べ物にならないほど聴き取れないのである。
「社会学とはすなわち、我々の社会において発生する社会現象に対して、論理的で実証的な方法論を用いてその発生や影響を解き明かす学問であり………」
私の感覚ではあるが、日本語にすると彼の話している文章はこれほど硬く、尚且つ内容は抽象的であった。
予備校で、
「台北101は、台湾で最も高い建物で、台北の信義区に位置します。その建物は…」
程度の文章や会話しか習ってこなかった私の中国語では、歯が立つ相手ではないのである。
教授は途中10分休憩を挟みつつ、3時間(正確には50分×3=150分間)話し続けた。
私は血眼になりながらシラバスや冊子の字を追い、全神経を集中させて彼の話を聞いていた。
結局3時間の授業の中で、私が知ったことは、主に第一単元の内容に関することと、この授業に関する以下の重要な注意事項であった。
- 教授の話の中には、単元ごとの冊子には載っていない内容もあるので、しっかりと話を聴くこと。
- 毎週、読書課題として英語又は中国語で書かれた論文を2つ程度出すので、次週の授業前までにどちらも読んでくること。
- 毎週、中国語1000字程度の小論文を提出すること。
- 毎週、別途開かれる討論会(2時間)に参加し、発言すること。
- 中間、期末テストは全て記述式で、考査時間は3時間。例年平均点は決して高くないので、心して臨むこと。
中国語という「ツール」の段階で壁にぶち当たっていた私にとって、この宿題の量とテストに関する事柄などは、「死ぬ気で勉強しろ、然もなくば卒業はない」と言われているのに等しかった。
結局その日は第一単元(「木を見て森も見る」と意味深に名付けられた社会学の基礎に関する記述)の半分ほど進んだが、正直その一割程度しか理解していなかった。
チャイムが鳴り、教授はマイクを置いた。
打ちひしがれながら自転車を爆速で漕ぎ、次の授業へ向かう。(10分後に次の授業が始まるが、キャンパスが広いので急がないと間に合わない。)
次の授業はフレッシュマン英語だった。
教室に入ると、教授は既に入室していた。
彼は細く色白で、背が高い男性だった。髪にはパーマをあて、色はダークブラウン。細い指先にはカラフルなパステルカラーをしたネイルが施されており、耳にはピアス、首元にはネックレスなども輝いていた。
要するに、彼は「典型的」な男性教授ではなかった。
抑揚のない声で彼は淡々と英語で授業を始めた。
「私の話を聴いていない生徒はぶっ飛ばす。私は真面目に授業をして、君たちは私の話を真面目に聴く。最低限のお互いへのリスペクトを持ちながら、1年間やっていこうと思っている。」
冗談抜きでこんな表現を淡々とした口調で話すのである。
夜の中国語の授業(授業開始前のテストで、幸か不幸か上級クラスに配属された)は、年配女性の教授が受け持っていた。
「私は厳しいよ?発音も文法も単語の用法も、厳しく直していく。ついて来れなかったら質問しなさい。努力しなさい。努力をしない人間に単位は渡さない。とにかく私は厳しく皆さんの中国語を鍛えていく。よろしく。」
私は18歳にしてビビり散らしていた。
よく見ると周りの生徒も院生ばかりで、高速中国語で受け答えなんてできてしまう程レベルが高い。(上級クラスの帯が太すぎるだろと本気で愚痴をこぼした)
そんな中で生徒が順々に一人ずつ自己紹介するという、最悪のシチュエーションが訪れた。前にも述べたが、私は当時中国語を話そうとしてもスラスラ出てくる程流暢ではなく、いかにも「外国人が喋っているような」中国語でしか話せなかった。
私が自己紹介している途中、先生は眉を寄せ、あからさまに「聴きづらいなこの人」みたいな顔をした。ここで私のメンタルは限界を迎えた。
(因みに英語の授業も中国語の授業も、それなりに宿題が出た)
授業を終え、とぼとぼ帰路に着く。
散々な1日だったなと思いながら、夕食がまだだったことを思い出すが、すっかり萎縮した私は、コンビニでおにぎりを1つだけ買って寮に戻った。
一気に目の前に現れた壁に恐怖を感じつつも、おにぎりを食べているうちに「こんな来たばっかりで萎縮していてはこの先に未来はない」思うようになり、カバンからその日にもらった社会学の冊子を取り出し、わからない箇所を熟読した。この日のこの瞬間が、私の「スイッチ」が入った瞬間だったと思う。
今、私はもう4年生である。
あの日を懐かしく思いながらここまで書いた。
あのスイッチのおかげで、この6月に卒業できそうだ。