Mahmalo’s blog

趣味、興味、留学、日常について語ります。

【自分紹介】【音楽】Brahms: Double concerto in A minor Op.102 私の前に現れたデミアン

2019年、夏のある日の夜に私はスーツを着て、コンサート会場へ向かっていた。当日は雨が降る予報だったので、傘を持って行ったのだが、幸いにも雨が降ることはなかった。少し湿った涼しい空気の、気持ちのいい夜だった。これから聴きに行く武満徹ブラームスへの期待に胸を疼かせ、湧き出て尽きることのない期待をこぼしながら、一歩一歩会場へと歩んでいた。しかし、都会の騒々しさと胸の鼓動とは裏腹に、私の頭は自らの過去を回顧していた。私がまだ、明るくて暖かい世界にいた時のことである。

 

当時の幼い私の世界は、音楽に満ち溢れ、明るく、暖かく、精神が充実する尊く神聖な世界だった。母に連れられ、たくさんのコンサートに行った。車の中にはクラシックのCDが何枚か置いてあり、乗るたびに私は好きな曲をリクエストし、何度もリピートしたのである。私の1番のお気に入りは、ブラームス交響曲第1番だった。私はそれまで、その「明るい世界」でしか生きたことがなかった。自分、家族、親戚と、幼稚園で知り合った純粋無垢な友人達など、自分が知り得る人間は全てこの世界にいた。音楽や友情、愛はそれに差し込む光だった。私はそこにいることで生まれ、育ち、安心し、帰属感を覚えたのである。小学校に入学してからも、私はそこに生きていた。国立大学の附属学校に入学した私は、周りを囲む自然に囲まれながら、明るい世界で平和を享受していた。

 

私の人生における一つ目の分岐点は、小学3年生あたりに訪れた。大きな事件が起こったわけではない、きっかけは小学生としてはごく普通な生活の中にあったのである。私は、人の生活には「非正式な地下生活」がある事を知った。以前の私は言いつけを守り、禁止されたことはせず、過ちを犯せば、その分しっかり叱られた。しかし歳を重ねるに連れ、「私より一歩先にいる周りの人達」は、親や先生の目につかないところで、少年少女なりの「秘密」を持ち始めた。こっそりと学校に飴を持ってくる者、携帯を持ってくる者、チョークや黒板で遊ぶ者など、様々いた。そして幼い私もまた、小学生にありがちな「ちょいワルはカッコいい」という、摩訶不思議な風潮に感化され、叙々に「そっち側」に近づいて行ったのである。「家族の前での自分」と、「友人の前での自分」の乖離が始まったのは、その時期である。「暗い世界」が私の前に現れ、私はそこに向かって歩み始めた。そこでの生活もまた、楽しかった。友と私は、先生や親に見つかったら怒られると知りながら、ソリ遊びの列に横入りし、ゲームソフトを学校で貸し借りし、私たちは罪を共有した。それは私達だけの秘密であり、私達はその為に関係を深め、世俗的な地下生活にのめり込んでいった。より一層世俗的になるということは、より一層神聖な世界から離れてゆく事を意味していた。

 

とはいえ、放課後に学校から家に帰った私は、結局そこでまた明るい世界に足を踏み入れ、そこでやっと安心と安息を得るのである。二重になった私は、そのまま明るい世界に帰ってきてしまった。私はその瞬間、神聖で明るい世界に、世俗的な黒い物を持ち込んだ気持ちに駆られた。家族が知らない私がいる、家族の目に映る私は偽りである、という意識は、私に残酷に容赦無く、不快感を注ぎ込んだ。私はその時期、明るい世界と暗い世界の間で、彷徨っていたのである。

 

中学に入り、私は一層暗い世界にのめり込むことになる。小学校と比べ厳しく、要求の高い中学校生活は、皮肉にも私とその仲間達の地下生活を豊富にした。大人達の前では良い生徒を演じ、彼らに目が届かないところではスクールカーストの形成、後輩への搾取など、自身の世俗的成分を盲目的に増加させたのである。そして、以前から明るい世界と暗い世界の二元化に嫌悪感を感じていた私は、その二者択一の選択を強いられることになり、(恐らく多くの人と同じように)私は暗い世界で、仲間達と生きる方を取ったのであった。

 

思うに反抗期とは、ここから起こるのである。家族の私に対する「明るい世界に生きること」とは、もはや私にとっては違う世界の話である。私はそれらを拒否し、結果的に、本質的な「家族と生きること」を拒んだのである。

こうして振り返ると、私が学生として過ごした時間は、大半が暗い世界の生活であった。高校に入り、学問に対し多少の情熱を持った私の生活もまた、明るい生活に回帰することはなかったのである。

 

私はもう、そっち側の人間であった。

しかし、明るい世界を再び意識し始めたのも高校時代であった。ある程度歳を重ねた私は、(これも非常に多くの人々にも見られることであるが)過去に対しノスタルジックな感情を抱くのである。そのせいか、私はたまにまたクラシックを聴き流すようになった。ただ、それも決定的な回帰へのきっかけにはならず、私はあくまで聴き流しているだけであった。

そんな中時が流れ、転機は突然にやってきた。私は大学2年生の課程を終え、留学先から日本に一時帰国した時である。長らくクラシック音楽の演奏会に足を運んでいなかった私は、突然の思いつきで、チケットを買ったのである。

社会学は非常に面白い学問だが、いつも何処かで私に、「人とは社会という外在的な存在に反映である」という事を訴えた。当時の私にとって、人の主体性や自我というのは、虚構に過ぎなかったのである。しかし、私は同時に、人の「有機性」を渇望していたのである。明るい世界、暖かい世界、クラシック音楽という一種の人によって作られた素晴らしい芸術を知る私に、社会学の主張は冷た過ぎた。その有機性に対する渇きが、私をまたコンサートに足を運ばせたのだ。


会場に到着し、席についた。私は緊張していた。そのコンサートの一曲目は、武満徹作曲の「死と再生」であった。当日が8月だったこともあり、私は毎年の如く、戦争の悲惨さと原爆の黒さに痛みを覚えながら、聴き入った。「死と再生」の演奏が終わり、人々はまるでそれがルールかのように、一斉に咳払いをし、また静まりかえった。指揮者がタクトを挙げ、振り下ろす。そして私は遂に、彼との出会いを果たした。

ブラームス二重協奏曲、ブラームス自身と友人の仲直りの曲。

その曲は私に訴えかけた。今まで二元化していた明るい世界と暗い世界は、曲の進行と歩調を合わせ、私の中でお互いに近づき、アウフヘーベンを果たしたのである。私の世界はその時、明るくも暗くもなくなっていた。まるで喧嘩した2人の友人が、仲直りした後により一層仲良くなるように2つの世界は調和され、昇華し、全く新しい世界となった。

 

あの時聞いたブラームス二重協奏曲は、まさにヘッセが描いたデミアンのような存在として私の前に現れた。

今でもこの曲を聴くと、その衝撃を何度も私に回顧させるのである。