Mahmalo’s blog

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【小説】カフカ著「城」を読んで 〜カフカとデュルケムの対話、そしてマルクス・エンゲルス、「城」に見た社会〜

フランツ・カフカをご存知の方は多いと思う。とても有名なオーストリア=ハンガリー帝国の小説家で、今回書く「城」以外にも、「変身」など名作を多数残している。

 

しかし彼の作品は難解だ。その難解さは単に、私達が生きている時代と国の違いから来るものだけでは無い。事実事象と、登場人物の心情や様子を淡々と述べていくような筆致は、読む人にとっては掴み所が無いというか、いまいち内容の核心に迫りにくい印象を与える。

私自身、「城」を読むのに3週間かかった。私は長編小説であれば今まで平均で2〜3日、長くても1週間くらいで読み終えるペースで読んでいたので、今回はかなり時間がかかった方だ。というより、1つの作品に3週間かかったのはこれが初めてだ。

f:id:Mahmalo:20200302225259j:image フランツ・カフカ著、前田敬作訳「城」(新潮文庫)

 

 

これは、篠田一士氏が「二十世紀の十大小説」の中で取り上げた作品のうちの1つでもある。

物語の簡潔なあらすじとしては、ある街にやってきた測量師Kが、その街に溶け込み、生活を送ろうとする必死の苦悩を描いたものだ。

私は物語を読み終えて尚、ピンとくるものが無かったが、訳者のあとがきを読んで息を呑んだ。カフカの背景と世界観がわかりやすい形でまとめられていて、それを踏まえた上で作品を思い返してみると、さっきまで読んでいた色も形も無い文章が、急に立体的で具体的なメッセージを突きつけてきたからである。

 

訳者のあとがきによると、カフカにとって「そこに存在する」というのは、そこにある世界に所属するという事で、人々はその「所属」に際し、世界の「律法」に従う必要があると考えているそうだ。

ここで1つ、私が気がついた事がある。訳者がいう「世界」とは、直感的に思い浮かべるようなグローバル社会ではなく、マックス・ウェーバーの定義における「世界」、即ち個人が所在する社会である。前者の「世界」では律法は同じ事柄に対しても、程度や幅に於いて多種多様であり、「所属先の律法に従う」時に矛盾が生じてしまうが、後者では律法は同じ事柄に対して唯一無二で、現に私達は1つの特定社会の律法に従っているのであるからだ。

この解釈の上で率直に、カフカの「存在」に対する見方はアリストテレス的だと思った。「人間は社会的動物である」と言っているように聞こえたからだ。しかし考えるうちに、この思想はもっと身近な、自分が立っている巨人の肩かも知れないと気がついた。

 

社会に所属し、社会の律法を守る事でやっと人は存在できる。律法を遵守しなければ、その人は排斥され、存在することが許されないのである。

 

もし社会学を学んでいれば、この考え方に聴き覚えがある方もいるかも知れない。

この考え方は、社会を人より外在的な存在としている点と、律法に違反した場合に社会の力によって制裁が加えられる点で、エミリー・デュルケムの社会哲学に近い。ここで、私のカフカに対する関心は一気に増加した。デュルケムの「社会分業論」によれば、有機的な団結(Organic solidarity)に於いて、人々の役割は細分化し、人々は他者に依存し、人々の働きによって社会が運行されるのである。そして、「城」に登場する役人や秘書らは、(訳者の言葉を借りると)「その社会メカニズムの機能的役割を忠実に果たす職業人間」として描かれているのである。

 

以上の点に於いて、カフカとデュルケムの思想は奇跡的な一致を見せるが、彼らには重要な部分でコンセンサスが無い。それは、有機性においてである。

デュルケムは上記の分業による人々の団結を有機的としたが、カフカはそれら職業人間達は、人間の本来性を失った無機質な歯車のように捉えている。平凡な大学生の私には、どちらが正しいと言えるほどの脳も権利もないが、私の社会観はカフカの無機質的な見方の色が強い。

社会学はその一部分として、「社会が人間に与える影響」を研究する学問である。人間の行為や思想の形成は、社会化(socialization)や社会的相互行為(social interaction)更に社会制度(social institution)に決定的な影響を受けている、というのが私なりの概括であるが、その観点から「人間」を見てみると、人間とは社会の反映像と言える。即ち人間とはその成り立ちの段階から、「本来性」を保持していないのである。

人間という存在に対して、このようなアプローチでその性質を見てみると、私はやはりカフカに近い見方をしてしまうのだ。

 

 

「城」は私を、以上のような思想の散歩に連れ出してくれた作品であった。

万人受けとは決して言えない作品だ。

しかしカフカという特殊な背景を持ち、それ故に明確な「所属」に欠落した人間が、我々「社会に住む人々」に向ける謙虚で鋭い指摘は、20世紀にカフカによって再考された「ドイツイデオロギー」そのものである。

そして私はそれが、21世紀にこそもたらされるべき物だと信じて止まないのである。